1957 年から始まった創建夏期研修につき、加藤先生の補佐をし、先生が病床に就かれてからは主体的に運営をされてきた卜部泰正先生が、同志社大学工学会報第 32 号 ハリス理化学校開校 100 周年特集号(1990年)にお書きになった文章をそのままお読みいただきます。
「加藤與五郎先生と創研夏季研修」
工学部教授 卜部 泰正
故加藤與五郎先生と創研夏期研修については,奥田教授,山﨑氏および森川氏が詳しく述べておられるので,ここではなるべく重複を避けながら先生の略歴と夏期研修実施の経緯を紹介させて頂く。
加藤先生は 1872 年(明治 5 年)愛知県に出生、1891 年同志社ハリス理化学校普通部に入学,翌年大学部第二種化学科に進み, 1895 年卒業,同校第 3 回卒業生である。(大学部第 1 回卒業生は鈴木達治氏ら 3 名,第 2 回 2 名,第 3 回 2 名で,三宅驥一氏ら 3 名が同校最後の第 4 回卒業生となった。)その後,熊本の英学校教師を経て仙台の東北学院教師をつとめたが, 1900 年京都帝国大学に専科生として入学, 1903 年同大学理工科大学純正化学科を卒業,直ちに渡米して M.I.T. の A.A.Noyes 教授の助手として 2 年間の研究生活を送った。1905 年東京高等工業学校(1929 年に昇格して東京工業学)に招かれて帰国し, 1906 年同校教授。1911 年理学博士。1912 年応用化学科から電気化学科が独立し同科長に就任した(当時の応用化学科長は鈴木達治氏であった)。1933 年電気化学協会初代会長に推され, 1934 年に東工大建築材料研究所初代所長,ついで 1939 年からは東工大資源化学研究所初代所長をつとめた。
1942 年定年制施行により東工大を退官の後も,1951 年まで事務取扱の形で資源化学研究所長の職にあった。1942 年には先生の私財を基金として(財)加藤科学振興会が設立された。東京高工から東工大までを通して,教育・研究および日本の工業会の育成指導に挙げた功績は極めて多大であり,それらに対し発明協会などの表彰のか, 1952 年藍綬褒章, 1964 年勲二等旭日重光章を受けた。また, 1957 年には文化功労賞に選ばれた。同志社大学は 1964 年に名誉文化博士の称号を贈っている。1967 年に 95 歳で逝去された。
1942 年,先生はその主張を「科学制覇への道」と題する著書で世に問われた。東工大で先生の薫陶を受けた方々の尽力で, 1973 年に「創造の原点」と改題して出版され,版を重ねたのち一時絶版となっていたが,このたび材料科学技術振興財団と加藤科学振興会の手により再版発行された。また, 1950 年 10 月に挙行されたハリス理化学校 60 周年記念式に招かれたときの,「ハリス理化学校の思い出」と題した講演にも先生の主張が盛り込まれている(同志社工学会誌 1 巻 2 号所載)。
加藤先生は元同志社理事長故秦孝治郎氏と旧知で,また鈴木達治氏,三宅驥一博士らと共に同志社理工科教育再興委員会のメンバーとして, 1944 年開校の同志社工業専門学校設立に力を尽くされた間柄であった。1956 年夏軽井沢での再会という偶然の機会に吐露された,加藤先生の創造教育に対する年来の素志に感銘した秦理事長が,星名秦工学部長の積極的な賛同を得て学長等を説得した結果,加藤先生の指導による軽井沢での夏期研修が 1957 年に始められた。先生は米国から帰国ののち 50 年以上にわたって創造教育の重要性とその本質を説き,自ら実践してこられたが広く一般の認識と理解を得るに至らなかった。しかし,同志社大学有志の協力により,改めてその素志実現に向けての一歩を踏み出し,晩年の 10 年間に全力を傾注されることとなった。
先生のご希望で化学と電気の学生 6 名および助言のための教員 2 名が参加して,夏期休暇中の約一月間ご指導頂くことになり, 1957 年 7 月初旬,共に専任講師であった中西進氏と筆者は星名先生の命を受け,具体的な打ち合わせと準備のため,軽井沢に加藤先生を訪ねたところ,当時 85 歳の先生は大変お元気で先ず年来の所信を熱心に説かれた。また,秦理事長の依頼を受けた安中の校友半田隆一氏の案内で,研修と宿泊に使用するシーモアハウスを視察されたが,教員に落ち着いて滞在して貰うには不十分であるとして,別に貸別荘の 2 室を手配された。工業化学科から 4 年次生 3 名,電気学科から 4 年次生 2 名, 3 年次生 1 名の学生が推薦されて参加し, 1957 年 7 月 20 日から 8 月 20 日まで第 1 回の研修が実施された。その後, 1959 年まではシーモアハウスを使用した。
この研修のために,加藤先生がご自宅に近い軽井沢町上の原に私費を投じて新築された創造科学教育研究所(創研)が完成した 1960 年以降は,同所で毎年夏期の研修が続けられることとなった。それまで学内では軽井沢ゼミと称していたが,この頃から創研夏期研修と呼ぶようになった。
加藤先生は,その教育指導法が同志社大学に取り入れられ,すぐれた創造力をもつ人物の育成によって,創造教育の範として実証することを強く期待しておられた。そのためには私財のすべてを惜しまないとして,毎年の研修に要する経費の全額を同志社へ寄付して負担し,素質ありと見込まれた学生には加藤科学振興会の奨励金を支給された(財団の基金はすべて先生が私財を提供されたものであった)。研修の回を重ねるごとに参加した教員の間に理解が深まったが,工学部の正式のカリキュラムに組み入れることは種々の事情から困難な状況にあった。1964 年理工研所長に再任された星名教授は,同志社大学として積極的に取り組む必要があるとの考えから,夏期研修運営のために松山秀雄教授を長とする委員会を理工研に設け,また創造工学の市川亀久弥氏を専任研究員(教授)として招くことを理工研協議会に提案して決定した。同時に,1965 年からは経費の過半(1967 年以降全額)を理工研予算から支出することとした。また,この頃から機械系の学生も参加するようになった。
1967 年春には「創造科学教育 10 年の歩み」が出版された。62 ページの小冊子であるが,開所式における挨拶や研修中の講話などによって加藤先生の唱導されたところが良く理解できよう。その出版について秦理事長から理工研に打診があったが,結局は秦理事長を発行責任者とする法人同志社の発行となった。しかし,その体裁は理化研報告特別号と同様である。
加藤先生は 1967 年 5 月から病床に就かれ,先生を欠いたまま研修を続けていた 8 月 13 日に逝去された。先生の強い信念と指導力によって次第に効果を挙げようとしていたときに受けた痛手は大きく,その後をどのようにするかが問題となった。秦理事長は松山教授をはじめ関係教員のほか参加学生も招集して,10 年間の歴史と経験を生かして継続発展させてほしいという意向を示し,意見を求められた。加藤先生不在の研修の意義についての懸念もあったが,先生の遺志を継いで軽井沢での研修を継続すべきであり,大学の方針と体制を確立する必要があるとの意見が強く出された。その後, 1967 年 12 月の理工研協議会において,工学部の了解のもとに理工研が創研夏期研修を継承し運営することが決定された。
このようにして,主催者加藤先生に工学部有志が協力する形で始められた創研夏期研修は, 1965 ~ 67 年の過渡期を経て 1968 年から理工研の事業となり,毎夏実施して今日に至っている。
加藤先生没後,遺産の多くとともに創造科学教育研究所は加藤科学振興会に寄付されて同財団のゼミナーセンターとなり(さらに 1986 年秋には軽井沢町大日向に研修所として新築移転),他大学等の利用にも供されるため,研修期間は2~3週間に短縮された。また,研究奨励金の支給対象範囲も本学以外にまで拡大されたが、本学では引き続いて毎年数名がこれを受けている。本研修開始の当初から今日に至るまで,加藤科学振興会,特に専務理事山﨑貞一氏(現 TDK 相談役)から頂いて来た,一方ならぬご配慮を忘れることはできない。また,在学中加藤先生の指導を受けた校友山﨑舜平氏から,研修に参加する学生に対する研究奨励金が毎年理工研に寄せられ,各年度 3 名の大学院前期課程学生がこれを受けてきた。さらに,同氏からハリス理化学校開設 100 年,創造科学教育研究所設立 30 年に当たって多額の寄付があり,本年 4 月に理工学研究所加藤・山崎記念基金が設定され,その果実により将来にわたって本事業の拡充が図られることとなった。
夏期研修の実施に当たって約 10 年にわたる間全体の世話をされ,また秦理事長とともに加藤科学振興会の評議員をつとめた松山教授が 1969 年に逝去され,その後を筆者が引き継いで 20 年余になる。振り返ってみると悩み迷うことも少なくなかったが,その度にご逝去の一月程前お見舞いに伺ったとき,病床に臥したまま筆者の手をとって力強く励まされた加藤先生を思い浮かべて,ようやく今日まで来ることができた。最近は, 1957 年の第 1 回研修に 3 年次生で参加してから 10 年間にわたって加藤先生のご指導を受けた大谷隆彦教授に,研修の全期間における指導の中心的役割を果たして頂いている。また,この間多くの工学部教員からの理解ある協力と,卒業生からの激励と支援を頂くことができた。この機会に深い感謝の意を表わすとともに,加藤先生の遺志を継承してその成果を挙げることができるよう,今後一層のご鞭撻をお願いしたい。(工学部 電気工学科教授:当時)
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